「金シャチ横丁」構想

金シャチ横丁

河村たかし名古屋市長は、「金シャチ横丁」構想を推進している。この場所は、西の方から藩主の霊廟、家康を祀った東照宮、名古屋城築城前からこの地に祀られている亀尾天王社が建ち並ぶ尾張徳川家にとっての聖域だった。

「天王社」って何?

天王社とは、現在の那古野神社(なごやじんじゃ)のこと。

創建は醍醐天皇の御代、延喜11年(911年)と伝わる。津島牛頭天王社(つしまごずてんのうしゃ、現在の津島神社)を総本社とする天王社のひとつで、当初は亀尾天王社と呼ばれた。天文元年(1532年)の合戦で社殿を焼失したが、天文8年(1540年)織田信秀により再建されている。創建時より若宮八幡社と隣接していたが、慶長15年(1610年)の名古屋城築城の際に、当神社のみ三の丸の郭内に取り込まれ、若宮八幡社は城外に遷座した。これより、三之丸天王社とも呼ばれ、城の総鎮守、城下町の氏神とされた。またこの時、新たに三之丸東照宮(現・名古屋東照宮)と隣接している。

明治維新時に須佐之男神社と改称し、1876年(明治9年)名古屋鎮台が城内に置かれたのを機に、東照宮とともに旧藩校明倫堂跡地である現在地に遷座、1899年(明治32年)に那古野神社と改称した。1900年(明治33年)には能舞台兼用の神楽殿が建てられて月次能が催されるなどしたという。神社は1945年(昭和20年)3月19日の名古屋大空襲で本殿などを焼失、戦後再建された。なお、前述の神楽殿は戦災を免れたが1992年(平成4年)に火災で焼失している。

江戸時代では、例祭である天王祭は東照宮祭、若宮祭とならんで名古屋三大祭とされ、特に若宮祭とは同日であった(現在は別の日)ことから祇園祭と総称された。車楽(だんじり)2両と見舞車10数両が曳き出され賑やかなものであったが空襲で車楽などの大半が失われ、現在では車楽1両が境内に飾られるほか、若宮八幡社への神輿渡御が行われる。

金シャチ横丁の事業展開

金シャチ横丁のイメージ